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子持ち様とは?「うざい」「ざまぁ」と言われる社会で、私たちはどこへ向かっているのか

「子は宝」って、昔は当たり前のように言われていたのに——。

今では、「子持ち様うざい」「迷惑」とまで言われてしまう。

ときには、「ざまぁ」「滅びねーかな」という言葉まで。

 

SNSでそんな様子を目にするたび、私たちは何か大切なものを、どこかに置き忘れてきたような気がしてしまいます。

 

今回は、「子持ち様」というキーワードをもとに、現代の課題を考えてみました。

内容

  1. 「子持ち様」とはどういう意味?
  2. 「うざい」「ざまぁ」「迷惑」とされる現実
  3. 子育てを取り巻く環境
  4. 「若い世代」や「子ども」に対する政治
筆者は、内閣府の男女共同参画ヤングリーダー会議に、かつて県代表で参加しました。また、仕事を持つ女性にとどまらない、子育てや介護など、様々なライフステージで奮闘する女性の、地域ネットワーク組織「トータルキャリアネットワーク・ブルー」を創設運営した経験などから「子持ち様」についてまとめています。

子持ち様への批判「うざい」「迷惑」「滅びねーかな」

「子持ち様」とはどういう意味?

「子持ち様」とは、子育て中の親を指す言葉で、ネット上で使われることが多いスラングです。

 

この言葉には、否定的なニュアンスが含まれていて、子育てをしている人は周りに迷惑をかけても許されると考えている、あるいは特別な扱いを求めている、という批判が込められています。

 

わざわざ「様」を付けることで、その身分を「ご立派だ」と皮肉ったニュアンスも伝わってきますね。

 

いわば、子を持つ親に投げかけられる批判の言葉と言えるでしょう。

 

でも、誰かが不安や不満を口にするとき、そこにあるのは必ずしも「その人への批判」だけじゃないことはありますよね。

 

それは、

どうしてあの人はあんなふうに優遇されてるの?

自分はこんなに我慢してるのに。

という心の声。

 

「子持ち様」という言葉の裏にも、そんな声が隠れているように感じます。

では、なぜ今の社会では、子育てをしている人に対して、こんなにも厳しい目が向けられるようになったのでしょうか?

 

私たちは、どこで行き違ってしまったのでしょう。

 

「子持ち様うざい」「迷惑」と感じさせてしまう現実

会社で、ある同僚が「子どもが熱を出して、急きょ明日休むことになった」と知ったとき。

表面上は「大変だね」と言いながら、心のどこかでため息が出るような、そんな瞬間。

 

責めたくないのに、責めてしまう。

理解したいのに、モヤモヤが消えない。

 

それは、「余裕がない」からかもしれません。

 

誰かの急なお休みで、業務が滞る。残業が増える。予定が崩れる。

ただでさえギリギリの人数でまわしている職場にとって、それは「小さな我慢」では済まないこともあります。

 

「うざい」「迷惑」——そんな強い言葉の根底には、社会全体の“構造的な無理”があるように思えてなりません。

 

そしていつのまにか、子どもを育てているという、かつては「当たり前で、尊いこと」だった行為にすら、ためらいや嫌悪感が向けられるようになってしまったのです。

 

【ふかぼり】職場における「子育てとしわ寄せ」の現実

現代社会では「余裕をもった人員配置」が難しく、特に小規模な職場や現場では、ひとりの欠勤が全体に影響を与えることもあります。

 

一方で、子育て中の従業員も、自ら望んで急に休むわけではありません。

子どもの病気やトラブルは予測不可能であり、対策が立てにくいのが現実です。

 

本来、企業には「育児休暇制度」や「在宅勤務制度」など、柔軟な仕組みを整える努力が求められますが、人手不足とコスト削減の波の中で、理想と現実のギャップはなかなか埋まりません。

 

子育て中の社員が急に休むことに対して、周囲に「またか…」という不満が生まれるのは、人間関係だけの問題ではないのです。

 

そもそも、組織に人員の“余白”がなくなっているからこそ、誰かの急な欠勤が、ダイレクトに他の社員の負担へと跳ね返ってしまいます。

 

ここで押さえておきたいのは、日本はこの30年間、ほとんど経済成長していないという事実です。

 

企業は長期にわたって「コスト削減」を続け、非正規化や業務の効率化が進みました。

その結果、現場には「一人分の穴を埋める余裕」が残されていないという厳しい現実があります。

 

つまり、子育てへの理解や配慮が足りない以前に、「誰かを支える仕組みそのものが崩れている」――そう考えると、見え方も変わってくるかもしれません。

 

「子持ち様、ざまぁ」という冷たい言葉は自分も傷つけている

SNSで見かけた「子持ち様、ざまぁ」という言葉。

それを目にしたとき、違和感と痛みを感じるのは、私だけではないでしょう。

 

たしかに、電車の優先席で眠る親子や、公共の場で泣き止まない子どもを前に、「またか」と眉をひそめる気持ちもわかります。

そういう親が、周囲から冷たい視線を浴びたときなどに、「ざまぁ」という言葉が浮かぶのでしょう。

 

ただ、すべての親が周囲への配慮を忘れているわけではありません。

必死に仕事と育児を両立させ、疲れきった表情で保育園に駆け込む親たちの姿も、私たちは知っています。

 

ですから、誰かのつまずきを喜ぶ人は、本当は、どこかで、その人自身の心が傷を負っているのかもしれません。

 

子持ち様への批判

「ディンクス(DINKs)」という選択と、時代の価値観

いま、子どもを持たない選択——いわゆるディンクス(DINKs:Double Income, No Kids)をする夫婦も増えています。

表現はカッコいいですが、つまりは、共働き夫婦が、もはや当たり前の時代となりました。

 

1980年代に登場したこの言葉。

でも今とは、まったくニュアンスが異なるのです。

 

1980年代当時は、まだ、結婚したら女性は家庭に入るのが一般的とされていました。

そんな中で、結婚後も仕事を続け、夫婦ふたりで収入を得ながら、あえて子どもを持たずに自由なライフスタイルを楽しむ。

 

——それは、とても新しく、時代の先端をいく生き方として注目を集めたのです。

都市での暮らしを満喫し、好きなことにお金と時間を使う姿は、特に若い女性たちの憧れの対象でもありました。

 

それは「子どもを持たない」ことへの否定ではなく、「女性も一人の人間として、家事や子育てだけではない人生を選んでいい」というメッセージが込められた、生き方そのものの象徴だったと言えるでしょう。

ところが、現在では、「ダブルインカム、つまり共働きでなければ生きていけない」という、経済的な必要からの選択になりつつあります。

 

そして、子どもを持つことが「負担」や「不利」と捉えられるようになり、「あえて持たない」というより「持てない」人たちも増えたのです。

 

社会の変化とともに、ディンクスは「豊かさの象徴」から「生存戦略」へと意味を変えているのです。

 

そこには明確な理由があります。

 

「今の暮らしを守るだけで精一杯」

育てる余裕がない、育てたくても制度や支援が追いついていないという現実です。

 

ですから、子どもを持てた人に対して、

「どれほど余裕があるんだろう」

「恵まれているのに、さらに配慮を求めるの?」

といった、皮肉混じりの視線が向けられることがあるのでしょう。

 

本来、子どもを持つことも、持たないことも、誰かに評価されるようなものではないはずです。

それでもどこかで、私たちは「比べてしまう社会」の中にいるのかもしれません。

 

子育てが迷惑とされる社会の構造的な問題

「子持ち様うざい」と言われる背景には、子育てを取り巻く社会構造のゆがみがあります。

かつては「祖父母や親戚とのつながり」「地域で育てる」「周りで見守る」という共同体の感覚が、現代ではどんどん希薄になっています。

 

隣人の顔を知らない。

助けを求めることも、差し出すことも、躊躇してしまう。

 

そんな社会の中で、子育ては“個人の責任”として、押しつけられてしまっているのです。

【ふかぼり】共同体の消失と子育ての孤立

都市化の進行とともに、ご近所づきあいや地域のつながりが弱まっています。

いえいえ、家族のかたちすら、あいまいで、薄れているのかもしれません。

 

一昔前なら、誰かの子どもが泣いていれば、近くの大人が声をかけるのが自然でした。

しかし今では、それが「余計なお世話」「犯罪につながる行為」とされることも。

 

人との関わりを避けることが礼儀とされる風潮のなかで、子育てはますます孤立しています。

 

子どもを取り巻く環境が「無関心な空気」で満たされてしまったとき、親の孤独は深まり、社会全体としても健やかな未来を育みにくくなったのです。

 

一方で、子育て世代自体が「関わってほしくない」気持ちがあるのも事実でしょう。

暮らしていくことが精いっぱいの現代、口出しされることは更にストレスになるからです。

 

でも、本当は、お互いの優しい思いが通じ合えたら、人は助け合い、分かち合っていくところに、深い幸せを感じられるもののはず。

なぜ、こんなに殺伐とした「距離」が生まれてしまったのでしょうか‥‥。

 

「若い世代」や「子ども」をめぐる政治

子どもを育てることは、あくまで当事者の「自己責任」になってしまった現代。

 

その原因を探ろうとすれば、それは、長い間、政治の中で「若い世代」が軽視されてきたことは否めません。

高齢化対策は進んでも、少子化対策は後回し。

 

議員は「一票投じてくれる人からの評価を得たい」のです。

どこかで、「どうせ一票を投じない若い人達のことは、放置しておけばよい」という判断がはたらいていたとしても不思議ではありません。

 

いささか乱暴な表現ですが、その結果、教育支援や子育て支援の制度は整わず、若い人が安心して子どもを育てる土台が、まだまだ脆いままなのでしょう。

 

もちろん、社会制度の問題だけではありません。

 

「未来を担う子どもたちが、社会にとって大切な存在である」

この価値観が、いつの間にか薄れてしまっているのです。

 

子どもへの温かな関心が薄れてしまうほど、多くの人が、暮らしていくことで精いっぱいという経済環境も大きく影響しているでしょう。

 

 

前述したように、30年間、経済成長していない国は、現代では日本以外、世界にみあたらないと言われています。

「働いても働いても、暮らしが豊かにならない」、この点も、政治の責任が大きいのです。

 

政治に無関心でい続けた……。

それこそが、私たちが立ち止まって見つめ直すべき“根本の課題”なのかもしれません。

 

ただ、若い世代にとって、参画しにくい選挙や政治の実態こそが、根本原因かもしれません。

 

そのためにも、若い世代は、自分たちの意見を政治家に伝えること、政治活動に参加することなど、さまざまな方法で声を上げる必要があり、また実際にそうなってきています。

 

若い世代が政治に参加しない、あるいは参加できない状況も問題ですが、現状の選挙の仕組みは複雑すぎます。

先進国でこのような選挙制度になっている国は、日本以外では見当たりません。

 


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【選挙違反】禁止されていることが、わかりにくい|法律が難かしすぎる

 

「子は宝」と言える社会に、もう一度

私たちはどこかで、自分の暮らしに精一杯となり、「子どもがいること」や「子育てしていること」が、特別なこと、面倒なこと、距離を置きたいこととして、切り離してしまったのかもしれません。

 

たしかに、子育て中の人たち自身にも、配慮や工夫が求められる場面はあるでしょう。

同じ職場や地域で暮らす以上、お互いに歩み寄りが必要になることもあります。

 

しかし、それ以上に、子育てが「迷惑」や「ざまぁ」の対象になってしまう社会のあり方に、静かに疑問を持ちたいのです。

 

私たちが次に向かうべき社会は、「子どもがいる」ことを負担に思う社会ではなくて、誰かの子どもを、静かに見守れる心の余裕を、もう一度取り戻していく社会であってほしいと、願っています。

 

 

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